|
||||||
筆のしずく | ||||||
この「筆のしずく」は、菅茶山翁の「筆のすさび」にあやかって、「筆のしずく」とした。 | ||||||
作者 上 泰二 | ||||||
|
丁谷梅林の留別 ~記念式典献吟&朗読劇に寄せて~ |
文政七年十二月、山陽は母梅颸を広島へ送る復り道、神辺に立ち寄る。茶山の邸宅、廉塾で 茶山が開く観月の詩会に、福山藩の文人たちに混じり賓客として共に宴を楽しんだ。 母を広島に送り、再び京都に向かう途中、五日間廉塾に滞在する。 神辺出立の日、丁谷梅林で早咲きの梅花の下、別れの盃を酌み交わす。 年老いた茶山72歳は愛弟子山陽40歳に一詩を賦した。 あなたを見送る私の思いと清らかな梅香とどちらが浅く、どちらが深いでしょうか。 丁谷餞子成卒賦(一) 茶山 遺稿 巻四 ~丁谷に子成を餞りて卒に賦す~ 出餞何邊酒共斟 出餞 何邊にか酒共に斟まん 荒蹊攜入早梅林 荒蹊 攜(携)え入る早梅林 暫停籃○渓橋下 暫く籃○停む渓橋下 ○ 竹かんむり+擧 別思清香孰浅深 別思 清香 孰れか浅深 これに対し山陽は、杯を清流で洗って返杯し、「老師御愛好の香りも、惜別の憂情が添えられて、 格別の芳香の深さを感じます。」と答えた。 発神邊菅翁送至丁谷梅林下有次韻言謝二首(一)山陽 ~神邊を発つ 菅翁送りて丁谷梅林にいたり詩有り 韻を次ぎ謝を言う二首~ 送者停轎行者斟 送者轎を停め行く者は斟む 洗杯相屬澗流潯 杯を洗って相屬す澗流の潯(岸) 平生唯愛梅花好 平生 唯愛す梅花の好さを 今日清香別様深 今日 清香 別様に深し 数晩とりとめのない話を繰り返したが、未だ名残が尽きない。清光の漂う中、折から夕日は、遠く西の山の端に近づいて行く。 茶山は杖をつき、去り行く山陽をじっと見送る。行きかけては後ろを向き、しばらく行っては、又ふり返る山陽に、茶山は重ねて別れの詩を送った。 丁谷餞子成卒賦(二) 茶山 遺稿 巻四 數宵閑話毎三更 數宵の閑話 毎(常)に三更 未盡仳離十載情 未だ盡さず 仳離(別離)十載の情 送者停笻客頻顧 送者笻(杖)を停めて 客は頻に顧みる 梅花香裏夕陽傾 梅花 香裏 夕陽傾く 送別の詩に答えて山陽は、父 春水と魂の交い合った学問の友、文筆の友であった茶山に逢うたび、今は亡き父を思い出し、老師茶山の姿を、父親とも思う山陽であった。 発神邊菅翁送至丁谷梅林下有次韻言謝二首(二)山陽 風樹蕭蕭歳幾更 風樹(親想う子の情) 蕭蕭 歳 幾たびか更る 毎逢父執不堪情 父執(父の友人)に逢う毎に情に堪えず 籃○忍凍遥相送 籃○ 凍るを忍んで遥に相送る 莫怪離杯惜未傾 怪む莫れ離杯惜みて未だ傾けざるを 「樹、静かならんと欲すれど風やまず、子、養わんと欲すれど親、待たずなり。」これから先、先生から坏を受ける時があるだろうか。それを思うととても返杯しがたい。 山陽は別れ難い気持ちを振り切って、静かに暮れゆく梅林を後にした。 回想 山陽 毎日両酔 得侍玉山十頽 然奉別後 更倍憾恨 蓋飲其醇醪 未属饜也 毎日師弟が酔って 師も何度も酔い崩れる しかも別れて後、恨みつらみが募るばかり あれだけ美味しい酒を頂戴して、なお、あきることがない。 輿窓内外献酬 手亀欲失杯 猶能摘梅花泛酒 光景宛在心目 夕陽已盡 曛黒中猶顧其植笻也 輿の内の師茶山と外の山陽の杯の応酬、思わず手がかじかんで杯を取り落としそうだ。 それでも、なお、梅花を酒の杯に泛べて眺めた情景が今もなお目に浮かぶような気がする。 折から、夕陽はすでに沈みかかり、夕曛の中、茶山先生が懐手で杖を突っ立ててじっーと 私を見送ってくれている姿が今も脳裏に蘇り離れない。 |
菅茶山関係資料とは? 国文化財指定までの経緯 |
・国文化財指定までの経緯 平成5年6月 菅茶山の子孫・菅好雄氏が「黄葉夕陽文庫」(廉塾書庫保管資料)寄託 平成7年7月 菅好雄氏が企画展「菅茶山とその世界~黄葉夕陽文庫を中心に~」を受けて、「黄葉夕陽文庫」を寄贈 平成21年2月 黄葉夕陽文庫」(廉塾講堂と母屋に保存)を追加寄贈 平成26年8月 黄葉夕陽文庫の中、五三六九点が「茶山関係資料」として国の重要文化財に指定。 ここまでに至る20年間、県博による調査・研究・整理済資料の企画展が四回開催された。 ・菅茶山関係資料の内訳 ①著述稿本類 673点 「黄葉夕陽村舎詩」校正段階資料など ②文書・記録類 631点 「福山志料」作成資料など ③書画類 331点 交友関係を裏づける画人書家学者など ④典籍類 2706点 茶山が収集した書籍類 ⑤絵図・地図類 44点 廉塾周辺、福山城下、その他各地地図 ⑥器物類 71点 版木類、文房関係、工芸品、収集品 合計 5369点 |
藩侯親筆「不如學也」 廉塾に掲げられた扁額 |
|
天明六年(1786)7月、福山藩校「弘道館」を創設した第四代藩主阿部正倫(第三代正右の三男 老中まで昇進)は林述齋との詩論中、菅茶山が「当今の詩人中、当に魁(NO.1)」との評価を初めて識った。 阿部家は代々幕閣の要職にあって、基本的には定府であったため、国許の事情に疎かったようである。 正倫は早速、家臣に命じ調査させ、その學行と併せて茂状(徳行)を識り、寛政四年(1792)8月、俸五口を給した。 それまでにも国許では、茶山を藩校弘道館教授に登用しようとしたことがあったが、病弱を理由に遜辞していた。心底では、時の幕藩政治に批判的で、宮仕えを固辞した刎頸の友、西山拙齋(備中鴨方藩)の生き様に共感、同一歩調をとろうとしたものと思われる。 藩も寛政五年(1793)「月二回、漢籍の講釈をすることを命じたほかは、敢えて無理押しはしなかった。寛政八年(1796)、茶山が私塾の永続目的で藩に「郷塾取立に関する書翰」を提出、翌年、藩がこれを認可したのを機に、享和元年(1801)7月、茶山は儒官に準じられ、弘道館で講釈をするようになった。 |
|
享和三年(1803)正倫公が隠居、10月、第五代藩主阿部正精(正倫の三男 老中まで昇進)が襲封した。「詩書画三絶」と謳われた文官である。その後の安政元年(1818)に、江戸丸山学問書を開校している。因みに嘉永六年(1848)老中首座として四面楚歌の国難を背負った第七代阿部正弘は正精の六男である。
文化元年(1804)、正月、茶山は正精公に召されて江戸に赴いた。すでに茶山は57歳、病弱に加え、長旅による疲労が重なったのだろう、2月、小石川江戸藩邸上屋敷で暫く病臥している。賴杏坪、眞野竹亭、伊澤蘭軒などが見舞いに訪れている。 春の訪れとともに、健康が回復、6月には、石田悟堂と常陸国(茨城県)に遊び、旅行記「常遊記」を遺しでいる。 |
誠之館人物誌より |
また、夏から在府の毛利清末侯、藝侯に招待されたのを初め、7月18日には栗山堂(柴野栗山邸宅)を借りて詩宴を開き、柴野栗山は固より、尾藤二洲、古賀精里、岡田寒泉、当日の様子「冨士対写図」を描いた谷文晁ら、多くの文人と交流。10月13日、正精侯に従い、帰国の途に着き、11月5日、帰郷した。 その一カ月程前、文化甲子秋九月 不如學也 棕軒書掲於神邊驛閭塾 と墨書した正精侯直筆の書を下賜され、仰せのとおり廉塾に掲げられ、茶山に全幅の信頼を寄せる正精侯の綸言を公にしていた。 今は、国重要文化財「茶山関係資料」(平成26年指定)の一つとして県歴史博物館に所蔵されている。平成七年(1995)、末裔の菅好雄氏が「茶山関係資料」、即ち、所謂「黄葉夕陽文庫」の中から選別された一部を県へ委譲されて以来の里帰りであろう。 |
|
不如學也・・・論語「衛霊公 第十五の三十一」 吾嘗終日不食 終夜不寝 以思 無益 不如學也 吾嘗て終日食らわず 終夜寝むらず 以て思う 無益 學ぶに如かざる也 “I meditated without eating or sleeping all day long before. It was fruitless. Learning is better.” |
|
菅茶山著 『遊藝日記』の旅を辿って (リンク) 広島・宮島の旅 |
井伏鱒二の山陽評 法螺吹きで無軌道 |
このほど「連理の軌跡―井伏鱒二と節子夫人」(館上敬一著 文芸春秋社 2017年)が出版された。白寿の館上さんの十五年間に及ぶ井伏夫妻との交流回顧録である。 井伏鱒二と言えば山陽について、森鴎外の史伝から「賴山陽も茶山先生のところに来て教えを受け菅家の養子に入ることになっていたが、山陽はサウウツ病のためときどき法螺吹きで無軌道だったので入籍の話は沙汰やみになった。」(「半生記」)と一刀両断している。 茶山自身も、「文章は無双だが、大人子ども同然」の山陽の不始末についてこまごまと、兄春水には内密にと前置きした上で末弟杏坪あて書き送っている。真偽の程は定かでないが、次のような奇矯な言動が今に伝えられている。 ①夕方、涼み台のうえに全裸になり、偶々傍を通りかかった塾生を捉まえ「人は大の字なりに臥るが、おれは太の字だ」と戯れたとされる。事実とすれば、茶山の顰蹙を買うことによって、三都への希いを伝えようとする心情のデフォルメであったかも知れない。 ②多くの逸話の締めくくりとして、出奔時、書き残したと伝えられる「水凡、山俗、先生頑(?)、弟子愚」の落書。壁、襖、(山陽の)箱膳に書いたとされる三説がある。とまれ、茶山師評は筆の滑り、茶山の人柄、学識は十二分に評価していながら、言葉の弾みで山陽の本心とは相当懸隔があったものと想像される。さもなければ、二人の師友関係は、山陽の廉塾脱去を最期に終焉を迎えた筈で、茶山歿後の「忘年呼小友 知己独斯翁 推輓芸場上」(「問菅翁病不及而終賦此志痛」)の詩も存在しなかったであろう。 |
廉塾八景 ―塾主 菅茶山先生の雅号、肖像画― |
菅茶山の生涯 ―地方創生の先駆者、その生涯― |
賴杏坪 in 三次「運甓居」 同志「茶山先生菅君之碑」撰并書 |
|||||
|
御領山大石歌 (リンク) |
丁谷梅林 続編 |
|
十二月五日、山陽、神辺出立、茶山は山陽を丁谷梅林まで見送った。 この日付(旧暦)は現在の一月初旬から中旬頃と思われる。二人の唱酬詩、各二首を含む解説は参考文献に詳しい。 丁谷餞子成卒賦 一 菅茶山 出餞何邊酒共斟 出餞何れの邊か酒共に斟まん 荒蹊攜入早梅林 荒蹊攜へ入る早梅の林 暫停籃輿渓橋下 暫く籃輿を停む渓橋の下 別思清香孰浅深 別思 清香孰れか浅深 (大意) 出立と刻、どの辺りで共に酌み交わそうか 冬枯れの未だ開花にはほど遠い梅林に手を携え合って足を踏み入れる 暫く谷川に架かる橋の下に駕籠を停める 私があなたを送る想いと清らかな梅の香とではどちらが浅くてどちらが深いでしょうか 發神邊菅翁至丁谷梅林下 菅茶山 有詩次韻言謝二首 一 頼山陽 送者停轎行者斟 送者は轎を停め行者は斟む 洗杯相屬澗流潯 杯を洗って相屬す澗流の潯 平生唯愛梅花好 平生 唯愛す梅花の好きを 今日清香別様深 今日の清香別様に深し (大意) 茶山は駕籠を停め、山陽は酒を酌む 谷川の岸辺で坏を洗って返杯 平素、梅が大好きな師友 今日の梅香は格別身に沁む 丁谷餞子成卒賦 二 菅茶山 数宵閑話毎三更 数宵の閑話 毎に三更 未盡仳離十載情 未だ盡さず仳離十載の情 送者停筇客頻顧 送者は筇を停め客は頻りに顧る 梅花香裏夕陽傾 梅花香裏 夕陽傾く (大意) 数宵に及ぶとりとめない話いつも丑三つまで それでも別れて以来十年(実際は九年)の思い出はつきることがない 茶山は杖を付いたままじっと見送り、山陽は頻りに振り返る 梅花がほのかに薫るうち、いつしか夕陽が傾きはじめた 次韻 二 賴山陽 風樹蕭蕭歳幾更 風樹蕭蕭歳幾たびか更る 毎逢父執不堪情 父執に逢ふ毎に情に堪えず 籃輿忍凍遙相送 籃輿凍を忍んで遙かに相送る 莫怪離杯惜未傾 怪しむ莫れ離杯惜みて未だ傾けざるを (大意) 子が親を寂しい思いが幾年繰り返されたことであろう 父の友人に会う毎に堪らない気分だ 厳寒を忍び駕籠に乗って遙か丁谷まで見送ってくださる 先生からの献盃を中々飲み干せない自分の真意が理解してもらえるだろうか 後に、山陽は同じこの日々を行者の側から漢文(一)と詩(二)で次のように回想している。 (一)丁谷餞子成卒賦 傍注 毎日両酔 毎日両酔 得侍玉山十頽 玉山十頽に侍するを得たり 然奉別後 然らば別れ奉るの後 更倍憾恨 更に倍々憾恨 蓋飲其醇醪 蓋し其の醇醪を飲みて 未属饜也 未だ属饜せざる也 (大意) 毎日、二人とも呑んで酔った さすが酒に乱れぬ先生も足がもつれ崩れた さてお開き、お別れして後も 言い尽くした筈の恨みつらみは募るばかり あれほどの美酒を頂いても まだこれで十分とは言いがたいほどだ (二) 輿窓内外献酬 手亀欲失杯 猶能摘梅花泛酒 光景宛在心目 夕陽已盡 曛黒中猶顧見其植筇也 (大意) 出立の刻迫り、お開きの輿(駕籠)の内と外との献酬、若い山陽ですら手が亀のようにかじかんでに杯を受けそこねかねないほどの刺すような寒気が襲う。 なおも梅花を杯に浮かべ献酬を重ねるあの夕方の光景が今もありありと鮮明に心に蘇る。 送者(茶山)は杖を突いて立ち尽くして見送り、行者(山陽)は送者の方を名残惜しげに幾度も振り返りながら次第に遠ざかって行く。折しも、梅香が漂う里に夕陽が傾きはじめる。 参考文献 「黄葉夕陽村舎詩」 遺稿巻之四 727㌻ 「菅茶山と賴山陽」富士川英郎 平凡社 昭和46年 「茶山詩話」(第五集)講演者 北川勇 菅茶山先生遺芳顕彰会 平成8年 巻子本 女侠「阿雪傳」 本会報第26号巻頭言(鵜野謙二会長)に「山陽が茶山の依頼で「阿雪傳」の寄稿を託された記事があった。紙面の都合で「註釈」を割愛していたので、一年振りに蔵出しする予定であったが、頁数の関係でHPで紹介する。 阿雪は茶山の父樗平と同じ享保12年(1727年)大坂生まれ、幼くして薬種問屋木津屋の養女になった。17・8歳の時、故あって想う男に添われず、男に義理立て、自ら誓って嫁せず、夫を迎えなかった。その証に今様ガングロか、顔に墨を塗り、その上に白粉をはたき、市内を往来していた。 ある時、四天王寺の彼岸会で悪漢二人が阿雪の簪を奪おうとしたが、逆に投げ飛ばされた。その武勇伝が噂を呼んで、折から、売り出し中の大坂の侠妓奴小萬に準えられ、虚実取り混ぜ、歌舞伎や浮世絵にも登場、「尺八を腰に差した」粋な姿の流行と併せて巷の大人気者になった。 28歳の時、仏門に入り三好正憲尼と名乗ったが、「常に白色の法被を穿ち、仍前の(少女時代の)二女輩(亀・岩)と遊戯す」(「山陽全書」)日々であった。 持って生まれた侠気は抜けきらない。ある時、瑞龍禅寺大法会で大勢の参詣者が俄雨に遭い困っているのを見て、急拠、雨笠百本を調達し、大衆の難儀を救ったこともある。 阿雪は武術の心得もあったが、書画を柳澤淇園翁に学び、詩も一誦するに足るものであった。もっとも、出家の身、書を望まれても、猥りに応ずることはなかった。酒客と猫が苦手だったとか。 享和3年(1803年)76歳の生涯を閉じた。茶山は梁田蛻巌が正憲尼に贈った詩稿や正憲尼自画自賛の姿絵などを入手、「物好きにも」(「山陽全書」)か、それとも「史料」や「筆のすさび」流に、阿雪の実像を正しく後世に伝えようとした(「菅茶山の世界」)のであろうか、謎に包まれたままである。 他に、茶山が山陽に参考文献の収集を依頼した著書に「室町志」(国重文)がある。 参考文献 「菅茶山の世界」菅茶山関係書籍発刊委員会 2009年 図録「近世文人の世界」広島県立博物館 平成21年 「賴山陽全書 文集・全伝下巻」昭和6・7年 「日本随筆大成」(曲亭馬琴遺稿―羈旅漫録)吉川弘文館 昭和50年 補遺「菅家墓所」 菅茶山顕彰会会報第20号」(2010年3月発行)から、一部加筆修正の上、転載した。 菅家墓所 2009年8月13日、「茶山墓参の集い」に出席。井上謙二副会長以下、十数名の出席者とともに「茶山の墓」に焼香、墓前に額づいた。 その折、某氏から墓地内の被葬者について質問され答えに窮した。早速、かんなべ図書館に通い、いくつかの文献を漁った。現地調査に基づく恰好の資料がガリ判印刷の小冊子、「神辺町史跡めぐり資料No.2茶山の墓」(神辺町立民俗資料館編)に整理され、実地測量数値、配置図、それに家系図が添えてあった。剽窃の謗りを蒙らないように、私なりの整理を試みた。 菅家墓所は嘗て神辺城があった黄葉山東北麓にある。古楓の巨木があり、「紅葉山」の別称があった。(「福山志料」菅茶山)茶山が日々、居宅から眺望、就中、夕陽に映える山容に惹かれ、私塾「黄葉夕陽村舎」の命名に織り込んだとされている山である。黄昏の情趣は、「落日残光在 新秧嫩翠重」、「留客村厨何所設 秋江帆影夕陽山」など幾種類かの詩句にも詠みこまれている。のちに葛原童謡「夕日」に歌い継がれる神辺平野自慢の原風景である。 JR神辺駅から国道313号線を東上、県立神辺高校前で右折すると、程なく山麓沿いの小径入口に小さな石の道標が建っている。風化で判読し難いが「菅茶山先生墓銘碑」とある。少し進むと、右手に今様の「案内標示板」と巨楠樹が太い枝葉を拡げ、道案内を務めてくれる。墓所に通ずる石段に差し掛かると、儒者様式と伝えられる幾棟かの瓦葺き御霊屋群が視界に入って来る。 菅茶山墓地配置図 菅茶山系譜 墓所は南北に長い長方形で、墓石と記念碑併せて大小30基。大部分が茶山の親族、茶山の墓は墓域南側御霊屋に安置されている。北隅に茶山の両親の墓、「菅波樗平翁碑文」(西山拙齋撰文)。菅圭二招魂碑、北条霞亭招魂碑(賴山陽碑文)2基、愛弟子の墓2基がある。大人の大きな墓石の谷間に、夭死した子どもたちの小さな墓石が並列している。当時、乳幼児の死亡率は流行病などのため全死亡者の70%~75%という。茶山が直系の後継者に恵まれなかった一因かも知れない。 茶山の墓は南側に安置されている。東向きの平屋、瓦葺の屋舎(間口1m余、奥行2m弱)。外郭全面、木組の格子越に内部まで見通すことができる。二枚格子の門扉を隔て前面に砂岩の墓碑銘、その後ろに墳墓がある。前方が少し方形に蝕まれた饅頭型の粘土が盛られ、その周囲はブロック状の花崗岩で縁取られている。御霊屋外回りは石造りの垣根で結界、正面に石燈籠一対が置かれている。 内部、両開きの墓碑銘は前大納言正二位藤原資愛卿題額、安芸、頼惟柔(杏坪)撰文。養嗣子、惟縄(菅三郎・自牧斎)建立とある。茶山と親交があった賴三兄弟のうち、末弟頼杏坪(広島藩儒・頼山陽の叔父)に「其の病の甚だしさに及び遺物を柔に寄せ、副えるに片楮を以ってし、自らの其の二三の行事の人に知るに及ばざる所の者を記す。其の意は誌銘を託さんと欲するに似たり。柔、之を受けて惻然たり、幾ばくも亡くして訃至る」死期を悟った茶山が生前杏坪に墓誌を依頼した際、人に知られていない行状を記したメモや頼山陽の「茶山先生行状記」などを参考に撰文したものと思われる。 墓碑の上部に題額「茶山先生菅君之碑」とあり、次いで、1748(延亨5)年02月02日、父、樗平、母半の嫡男として呱々の声をあげ、1828(文政10)年08月13日に病没するまでの茶山80年の生涯を漢文で後世に伝えている。 「墓誌銘」の内容については、本会報第18号でも矢田笑美子氏が解説している。養嗣子、菅三郎が建立。1940(昭和15)年02月27日、広島県史跡に指定。なお、諡は寛裕院廣譽文恭居士。菩提寺は神辺町川北 萬年寺。「文恭先生喪儀」については、「研究紀要第12号」(岡野将司 広島県立歴史博物館 平成22年)に詳しい。 頼山陽を竹原生まれと誤解されている人がままあるとされているが、山陽は大坂生まれ、6歳から30歳まで広島で育ち、生涯、7度竹原を訪れているだけである。また、その叔父頼杏坪を三男と誤解している向きがある。頼兄弟の両親、享翁-仲夫婦には春水(弥太郎)、岩七、春風(松三郎)、杏坪(萬四郎)、富三郎の順に五人の男児が授かった。次男岩七、五男富三郎が夭折、三賴が成人し、父親の望み通り学者になった。 同墓所内の茶山の生母半の墓碑は春水、「北条霞亭居士招魂碑」は山陽が撰文。一方、春水墓碑「題額」、「刻春水遺稿序」及び「春風先生墓誌」は茶山が筆を執っている。さこそそのように、茶山と頼家とは濃い親戚並みの交流を続けていた。茶山が脱藩の大罪を犯した山陽を庇護した所以でもあろう。 頼一族と相俟って、岡山藩鴨方支藩の儒学者西山拙齋との刎頚の交も忘れてはならない。茶山両親の墓・「菅樗平翁碑文」は拙齋に撰文を依頼した。 1771(明和8)年、初対面から三十有余年、茶山は拙齋を師兄と仰ぎ、鴨方神辺間が徒歩で一日程度の道程であったことも拍車をかけ、往還、逗留、書簡などを通じて二人は「聨翩たる雲中の鶴」のような緊密な交流を重ねた。茶山自身、柴野栗山が「徴士」と評したその生き様を範としたばかりでなく、弟恥庵(墓所内「菅圭二記念碑」)を拙齋の「欽塾」へ入門させたことからもその信望の深さが窺える。 拙齋は官の招聘にも拘わらず、官に仕えることを固辞、敢くまでも庶民のための清廉な儒学者に徹し寛政10年11月5日、64年の生涯を閉じた。11月10日、鴨山先祖以来の墓地に葬られた。葬儀は「浮屠を嫌った」師の生前の希望を入れて門下生、塚村崇、高戸安貞らが藩と折衝、故人の希望どおり儒者方式で執行された。故人の人柄を慕って「輿馬僕従街市の間に填つ」と記録に残されている。 一周忌に、茶山は「西山拙斎先生行状記」を執筆。さらに、歿後八年、(1806(文化3)年2月、頌徳碑「西山処士の碑」が竣工した。撰文柴野栗山、篆額頼春水、碑文頼杏坪。三人の著名な儒学者が協力して完成したことから「三絶の碑」とも謳われる。この建碑の陰の立役者が他ならぬ茶山であったことは言を俟たない。 本題に戻るが、茶山の墓碑は題額「茶山先生菅君之碑」とあり、延寛元(1748)年2月2日、父、樗平(高橋)、母半(佐藤)の嫡男として呱々の声をあげ、 1927(文政10)年8月13日、病歿するまでの茶山八十年の生涯を漢文で後世に伝えている。 茶山は生来尫弱だったことから、前途を儚むあまり、酒色博奕に耽ったこともあったと往時を顧みている。しかし、親の血を引く学問好きが彼を堕落の淵から這い上がらせた。廿歳を前に、一念発起、本格的な学問の道を志した。健康や家庭の事情から中断のやむなきに至ることもあったが、初志貫徹、六度に亘り上洛、医学・朱子学を学び、幼児期から片鱗を見せていた親譲りの学識を見事に開花させた。帰郷後、治世の乱れた宿場で、国づくりは人づくりを以って隗をなすことを痛感。私塾「廉塾」開塾を思い立ち、時に為政者の有り様を隠喩で詩に託す傍ら、藩、身分、階級、貧富で分け隔てをしない庶民教育を普及させて行った。北は から南は まで、全国津々浦々から塾生が高名を慕って蹊を成した。文人、墨客、それに諸侯までが競って彼に面会を求めるほどであった。 茶山自身、学者、詩人、教育者として名を馳せた自負もさることながら、寧ろ心密かに治世の鏡、地域の社会事業家としての自分に誇りを抱いていたのではないかと思えてならない。杏坪に寄せた「自らの其の二三の行事の人に知るに及ばざる所の者」がそれではないかと思われる。 墓碑銘にも紹介されているように、八訣に及ぶ茶山の生涯は後継者に関わって紆余曲折があった。 茶山は晩年、「臨終訣妹姪」に 身殲ぶれば固より信ず百て知る無きを 那んで浮世一念の残る有らんや 目下除非(ただ)妹姪を存す 奈何せん 歓笑 永く参差(しんし)するを と詠み、妹まつ(みつ・好:荒木市郎兵衛(圃叟)妻)、姪敬(菅公壽後妻、公壽死別後、北条霞亭妻)に後事を託ししている。 茶山は最初の妻為には若くして先立たれ、後妻(門田)宣との間に子宝を授からなかった。六人同胞のうち二人の弟猶右衛門(汝楩)、末弟圭二(恥庵)に後事を託そうとした。しかし、二人とも30代で他界。松岡家に入婿した汝楩と妻喜能の子、長作(萬年)に望みを繋いでいたが、萬年も父と同じ而立で夭折。 萬年と敬(のちに霞亭の妻)との間に授かった子菅三(惟縄)が菅家を継いだ。菅三夫婦は二男二女を設けたが全て夭死した。そこで、茶山は妻宣の姪門田尭佐(朴齋)を養子としたが、茶山病没の前年に離縁した。茶山から伊澤蘭軒あての書簡に「才子過て傲慢」の朴齋評がある。朴齋は生母の姉、宣の他界で血縁の庇護者を失った。その頃、茶山は血の繋がった菅三を可愛がっていたことから、みつ、敬の讒言によって茶山が朴齋藤を見限ったとする見方もある。その後、朴齋の四男晋賢が菅三の養嗣子となった。 茶山の墓の直ぐ西隣にある「自牧斎先生菅君碑」、その建立者が晋賢その人である。藩儒石川成章(関藤藤蔭)が撰文、誠之館の名物教授門田重長(号杉東、朴齋二男)が得意の筆を揮った。 晋賢は信(高草氏)を娶る。晋賢は娘美沙に文二郎を養子として迎える。文二郎は晋賢の兄門田重長の次男で、号を楓陰と称した。その後、晋賢は男子禮太郎を授かる。 文二郎は明治28年に没する。菅家墓所には、菅文二郎の墓と共に「楓陰菅先生碑」が建てられている。晋賢の跡を継いだのが長子禮太郎である。 禮太郎は美津枝(三宅氏)と結婚し、二女一男を授かる。大正12年禮太郎、晋賢が相次いで没する。その後継が好雄である。 好雄は平成14年に没し、墓所北側に妻昌子と共に眠っている。好雄は、平成7年に貴重な「茶山関係資料」を国民的文化遺産として広島県立歴史博物館に委譲する決断したその人である。 小早川文吾の余技 作字 「神辺風土記」(菅波堅次著)によれば、菅波信道は小早川文吾と親交があった。次の詩に一番鶏が暁を告げるのも忘れ、盃を酌み交わしながら、談論に耽っていた往時を偲ばれる。 訪楽々翁 菅波信道 吾尋楽々翁作玄談 対坐傳盃酒又酣 酔後千言奇事足 不知長夜鶏鳴 小早川文吾の学は和洋にわたり、殊に文字学に精通、笠岡の関政御略、古川古軒らと親交があった。著書に「三光史」などがある。詩文に長けていたが、「作字」(合成文字)を作る趣味を持っていた。 小早川文吾の作字について、秋山由美氏は著書「路傍の語りべ」( 福山リビング新聞社 平成29年)で次のように分かりやすく解説している。 文吾の作字の一つが天別豊姫神社拝殿前 狛犬の台石のほぼ中央に石彫されている。 天保十二年:「國」「水」「石」「火」の四字の組み合わせから成り立っている。 それぞれの文字 火=日輪、水=月輪、石=星象 を表象している。 「日本は立派な国柄である。」の意。瑞夢によって考案した。 東福院詩碑 閑行 その(二) この訪問ではご当主の好意で、茶山直筆の詩(絹本軸装)も床の間に飾って拝見させてもらった。本顕彰会催行の事業と知っての特別なおもてなしであろう。参加者一同、感謝感激した。本院は元はもう一段上にあったとのこと。茶山が詩に詠込んだ櫻は世代交代しているが、廉塾と寺から眺める櫻は格別であったろう。余り知られていない閑行(二)を紹介しておく。 また、特に、茶山詩については、林多恵子氏に懇切に教示してもらった。この紙面を借りて深甚の謝意を表したい。女史によれば、閑行(一)第三聯「東院意一株爛々」のうち、 「爛々」は編者の判断で置換されたものであろう。原本では「爛熳」となっている との指摘を受けた。 閑 行(二) 獨對桜花把酒觴 獨(ひとり)桜花に對し酒觴を把る 不知春日日増長 春日日長きを増すを知らず 嵐消白晝庭凝影 嵐消の白晝庭影を凝らす 露濕黄昏徑送香 露濕って黄昏徑に香を送る 茶山が遺したアイヌ工芸品 ―小刀の拵え、煙草入れなど 二月二十九日、中国新聞「天風録」に重文「菅茶山関係資料」器物類に指定されているアイヌ工芸品のコレクションが取り上げられた。「蝦夷地への敬意で、人づてに小刀の拵え、煙草入れなど集め、大切に残した」と結んでいる。県歴史博物館図録では、これらは、年代が特定できるアイヌ工芸品としては世界最古である と。巨峰茶山を指標に張り巡らされた全国的なネットワークの所産であろう。 雪に耐えて梅花麗し 補筆 広島東洋カープの優勝は有りてなお余りある様々な話題とその觸発材も提供した。 勢いづいて、黒田博樹(背番号15)の座右の銘の積み残し記事を掲載したい。 偶 成 示外甥(市來)政直 西郷 南州 (一八七二年(明治五年)) 一貫唯唯諾 一貫 唯々(いい)の諾 従来鉄石肝 従来 鉄石の肝 貧居生傑士 貧居 傑士を生み 勲業顕多難 勲業 多難に顕(あらわ)(あらわ)る 耐雪梅花麗 雪に耐えて 梅花麗し 経霜楓葉丹 霜を経て 楓葉丹(あか)し 如能識天意 如(も)(も)し能(よ)く天意を識(し)らば 豈敢自謀安 豈(あに)敢(あえ)て自から安きを謀(はか)らんや (大意) これまでずーと守ってきた鉄や石の如く固くて変わらない気概 (首尾一貫して、それを決して変えてはならない) 貧しい暮らしをしている人の中から人並み優れた人物が生まれる 立派な業績は艱難辛苦を経てこそ高く評価される (凍るような冷たい)雪に耐えてこそ梅花は麗しく咲き (幾星)霜を経て楓の葉は真っ赤に染まる もしも*天意がそこにあることを理解できるのであれば (*天意=天は人々それぞれに生まれながらの本分を授けている) どうして我が身だけの安楽を謀るような生き方ができようか (天の摂理に叛き、自己中心的な生き方を決してしてはならない) お光の墓 in 龍泉寺 龍泉寺にはその昔、義士と崇められた目黒新左衛門秋光の墓地の近くに、長崎御奉行支配吟味調役大坪本左右衛門娘「お光」の墓がある。菅波哲郎氏の講座「信道一代記」で教わった。 お光は文久三年三月二十八日午後、西本陣に入った「宿泊客」一行の一人、病人だった。深更、病状が悪化、藩医を呼んだが、薬石効なく息を引き取った。奥方の「火葬にて遺骨、江戸へ持ち帰りたい」との強っての希望で、主人序平らが諸事万端手配、龍泉寺で葬儀、納骨を行った。三月晦日、夫婦は序平に感謝の意を表し、後供養を頼み、江戸へ出立した。 總敏神社&勇(雄)鷹神社 ー總敏神社=祭神 水野勝成ー 元は福山城天守閣に徳霊社として祀られていたが、享保(1720年)、阿部家によって福山八幡宮 西側の社の北側に移された。 *勇(雄)鷹神社=祭神 阿部家中興の祖阿部正勝以降の祖霊社 文化10年(1813年)それ以前は江戸丸山藩邸にあったが、藩主阿部正精が家老内藤角右衛門景充に命じて福山城のある常興山と地続きの小丸山に造らせた。 この頃、牛海和尚(海道士)が書いたとされる相当の皮肉を折り込み詠んだ落首が残っている。この落首が原因で海道士は所払いとなって尾道の豪商橋本竹下に庇護された。 ①「聡鬢 (そうびん) の乱れし髪を結はずして 番子 頭を勇鷹 (ゆうおう) 神とは」 ②「聡鬢 (そうびん) の乱れし髪を結はずして 藩公 頭を勇鷹 (ゆうおう) 神とは」 語註: 聡鬢 (そうびん)=頭髪=聰敏神社にかけ、乱れし髪=乱れし神=聰敏神社の荒廃を指している。 番子 (ばんこ)=商家の小間使い=ここでは藩主阿部候を指す。 勇 鷹 (いさたけ) =(家紋 鷹の羽に因んでいる)を音読みし、神=髪 結おうとかけた。 備陽六郡志と宮原直倁 備後福山藩の地理、歴史、文化を網羅した福山藩最古の地誌。全46巻から成る。のちに発刊された「福山史料」(菅茶山)、西備名区(馬屋原重帯)の参考資料として重用されている。直倁直筆の稿本は大正七年(一九一八)末裔宮原国雄氏から「義倉」に寄贈され、今日まで大切に保管され平成十二年九月二十二日福山市重要文化財の指定された。 昭和二年十月二十三日、備後郷土史會(和田英松会長)が一心寺で備陽六郡志(校正)発行法要が執行されている。 墓碑(字面) 表 無二直翁圓倁居士 右 辞世 枯木龍吟塵夢覚 明々赫々一乾坤 左 安永五丙申天十月六日 宮原八郎左衞門直倁 裏 門弟□之(□は字体不明) 参考資料 備後史談 第三巻 第十一号4 明和一揆の義民 渡邉好右衛門義碑 国分寺裏唐尾山四国霊場一番札所の脇に「好右衛門義碑」がある。 渡邉好右衛門碑文 下御領村組頭渡邉好右衛門、父重兵衛という田村に住し資質剛直 頗る才略有す 安永元壬辰(一七七二)秋 里正憤り 之苛征自ず止むことあたわず 進み訴え福山藩庁において緩やかに事(おさむ)る 小民を救わんと之困憊して群センたる所中に身を縲絏(るいせつ)に繋ぐ 二年二月十三日、幽界に神を移す 時に年五十二 法号節生蓮意 寒水寺において葬る 吁凌霜の雪を侵し 救民に窮苦する霊徳 昭著にして百世に滅ぶ無し 昭和四年七月 土肥政長(村長)建立 参考文献(「第8回御野村郷土塾5」配付資料2015年12月9日 転載) |
|